I. [工房] ― 人がいなくなったあと
岩手・盛岡。夏の昼すぎ。
工房に入ると、光が斜めに落ちていた。高い窓から差し込む光に、細かい粉が舞っている。鉄の粉か、砂か、わからない。光に、芯があった。
人は、いなかった。
けれど、いなくなったばかりだ、とわかる。作業台に置かれた座布団が、まだ人のかたちに少しへこんでいる。革の手袋が、片方だけ脱ぎ置かれている。火の前に、折りたたみの椅子が一脚。座面が、こちらを向いたままだ。
扇風機が回っている。誰もいない台に向かって、首を振っている。
天井から、束ねた藁の刷毛が何本も吊るされている。床まで届きそうな長さで、まっすぐ垂れている。その下を通ると、わずかに揺れた。
人のいない工房は、静かではなかった。むしろ、たった今まで動いていた手の気配が、あちこちに残っている。道具は、置かれているのではない。途中で、手を離されている。
II. [鉄] ― 鉄は、待たない
工房の奥に、炉があった。
黒い、大きな口。すすで覆われ、光を吸い込んでいる。その横の、石の台座のようなものの上に、橙色に光るものがあった。
坩堝(るつぼ)の中で、鉄が溶けている。
見ていると、目の奥が熱くなる。近づかなくても、肌が温度を感じる。空気そのものが、その一点だけ、別の密度を持っている。
その光は、刻々と色を変えていた。橙から、わずかに黄へ。また橙へ。誰も触れていないのに、ひとりでに、変わりつづけている。
冷えれば、固まる。固まれば、もう注げない。それだけのことを、その一点の色が、語っていた。
誰も触れていないのに、鉄は、ひとりでに進んでいく。
炉の壁に、黒板があった。手書きの文字で、予定と、数が書かれている。誰かが、この火の進みを、あらかじめ数字にしていた。
III. [型] ― 型に積もる時間
炉の周りには、砂型が積まれていた。
円柱を重ねたような形で、床から腰の高さまで。すすで黒く、表面はざらついている。古い巻物を束ねて立てたような並びだ。数えようとして、やめた。何百という単位で、そこにあった。
砂型は、鉄を一度受けると傷む。同じ型を、いつまでも使えるわけではない。だから、ある型は今日のために、ある型は明日のために、ある型は役目を終えて床に。型の山は、これから注がれる鉄と、すでに注がれた鉄の、両方の時間を抱えている。
床には、鉄の粉が薄く積もっている。歩くと、靴の裏に細かい感触が残る。
型の黒、炉の黒、壁の黒。すすは、一日ではつかない。
南部鉄器が盛岡でつくられてきた歴史は、四百年を超えるという1。けれど、その四百年は、年表の上にはない。型に積もったすすの中に、床に落ちた鉄の粉の中に、藁の刷毛のすり減り方の中に、ただ積もっている。
IV. [職人] ― 鉄の変化を読む
作業台に、道具が並んでいた。
柄の長い刷毛。火箸。はさみ。細い金属の棒。手を伸ばせば届く場所に、手が覚えた順序で置かれている。木の柄は手の脂で黒光りし、握る部分だけ、少しへこんでいる。
けれど、道具そのものは、何も決めない。
刷毛をいつ当てるか。鉄をいつ注ぐか。それを決めるのは、鉄のほうだ。色が変わる。粘りが変わる。音が変わる。その変化を見て、手が動く。手が鉄を動かすのではなく、鉄の変化が、手を呼ぶ。
仕上げを待つ鉄瓶が、台の端に並んでいた。黒く、まだ少しざらついている。これから磨かれ、焼かれ、漆を塗られ、いくつもの工程を経て、ようやく器になる2。
どの工程でも、人は鉄の前で待っている。鉄が、次に進んでいい状態になるのを。早すぎれば、形にならない。遅すぎれば、冷える。手は、自分のはやさでは動けない。鉄のはやさに、身体のほうを合わせていく。
手が鉄を動かすのではない。鉄の変化が、手を呼ぶ。
V. [時間] ― 鉄だけが、進んでいるのではない
工房を出るとき、もう一度、誰もいない作業台を振り返った。座布団のへこみ。脱ぎ置かれた手袋。橙色に光る坩堝。首を振る扇風機。
人は、すぐ戻ってくるのだろう。鉄が、待っていないから。
けれど、外の光の中に出て、ふと思った。鉄だけが、進んでいるわけではない。
この工房で、十五年、四十年と手を動かしてきた人たちも、その時間を引き返すことはできない。すすが一日ではつかないように、手が鉄の変化を覚えるのにも、戻れない歳月がいる。鉄が冷えていくあいだに、人もまた、歳をとっている。
石庭の石は、何百年も動かずに、見る人のほうを変えていく。鐘の音は、響いて消えながら、聞く人に夜を見送らせる。鉄は、冷えながら、扱う人を急がせる。
どれも、時間そのものは見えない。石も、音も、鉄も、時間そのものではない。けれど、時間がそこを通ったことだけは、わかる。
鉄は、待たない。けれど、待たないのは、鉄だけではなかった。
Notes
- 南部鉄器の歴史は四百年以上とされる。江戸時代初期、南部藩(現在の岩手県)の藩主が京都などから釜師を招いたことに始まると伝えられ、盛岡を中心に発展した。現在は経済産業大臣指定の伝統的工芸品。
- 鉄瓶の製造工程は数十におよぶとされる。岩鋳社長・岩清水晃氏はインタビューで全六十八工程と述べている(フコク生命「JAPAN VISION」Vol.10、2016年公開)。本稿では工程の正確な数より、人が鉄の進みに合わせて手を動かすという点を見ている。