I. 「香」の一字の前で
中に入ると、まず迎えてくれるのは、壁の大きな額だ。墨で書かれた「香」の一字。大きく、黒く、そこにあるのは、まだ香りではなく文字だった。
その字の前に、香炉や、香を焚くための器が、静かに並んでいる。香りに出会うより先に、まず文字の前に立っている。
II. 白い箱に、顔を近づける
奥へ進むと、白い箱がいくつか、頭の高さに吊られている。01、02、03、と番号がふってある。床には立つ場所が示され、「香のさんぽ」と書かれている。
その場所に立ち、箱に顔を近づける。香りは、ただ立っているだけでは遠い。こちらが少し身を寄せて、はじめて、ふっと届く。
顔を寄せているあいだ、気づくと口を閉じている。香りを確かめようとすると、人は自然と、少し黙るらしい。
III. 香りが立つ前に
別の一角に、青みを帯びた皿があった。灰が敷かれ、火種を用いるためのしつらえが置かれている。横の紙に、「火種を用いて煙を立てずに香を楽しむこともできます」とある。
この展示を見ているかぎり、香りは、ただ火をつければ現れるものではないらしい。火種があり、灰があり、香とのあいだに、距離がある。少なくとも、ここで見えていたのは、香りそのものではなく、香りが立つ前の準備だった。
すぐそばには、香木も置かれていた。香りが立つ前の姿を、もう一つ見せている。
IV. 立ちのぼるものを、見送る
展示の中に、渦巻きの形をした香があった。渦が、外へ向かってほどけている。火をつければ、この渦の線をたどって、端からゆっくり燃えていくのだろう。
香は、燃えれば消える。皿に残るのは、わずかな灰だけだ。
薫習館を出ると、烏丸通の音が戻ってきた。香りは、もうどこにもない。それでも、しばらくは、口を閉じたままだった。
Notes
- 松栄堂 — 京都の香舗(香づくりの家)。
- 薫習館(くんじゅうかん) — 松栄堂が京都・烏丸二条で開く、香に親しむためのギャラリー。
- 聞香(もんこう) — 香道で、香を「聞く」と呼ぶこと。本稿は正式な聞香の場ではなく、香に向き合う所作として「聞く」という言葉を用いた。
- 空薫(そらだき) — 香りを空間に漂わせて楽しむ方法。本稿では、薫習館の展示にあった火種や灰を用いる例に触れている。
- 本稿の立ち位置 — 本稿は、薫習館で見た展示と体験、公開情報をもとにした訪問記であり、作り手の制作現場を記録したものではない。